産業廃棄物 その後 文・谷克二
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ウルムは濡れそぼっていた。まだ午後の六時というのに、降り止まぬ小糖雨に闇が深くたちこめ、大気はすべてのものを傷つけようとするかのように、寒々と冷えていた。有名な大聖堂(ミュンスター)も、雨の夜空にぼんやり輪郭を滲ませている。
ウルムははじめて訪れる町だった。勝手がわからない。それだけに、陽の光のあるうちに着きたかった。しかし、州都シュトットガルトでのスケジュールがたてこんでいた。
その日、東洋美術の権威であるブラウン教授を州立大学に訪ねて明治時代ドイツに流出した日本絵画の話を聞き、町を走り出したときにはすでに四時を廻ろうとしていた。車はベンツE230ワゴンタイプだった。この型の車を運転するのは初めてで、しかもハイテク車だけに、操作に慣れるまでひどく神経をつかった。シュトットガルト・ウルム間は百キロのドライブである。途中でくもり空がさらに崩れて、暗くながい雨がおちはじめた。それが苛立ちをつのらせた。ウルムの町に乗りこんだが、案じていたとうり、さっぱり方角がつかめなかった。仕方がないので、ラッシュの流れに巻きこまれるまま車をころがし、中央駅をめざした。『とにかく案内所でホテルを紹介してもらおう』と思ったのである。駅の地下駐車場に車を入れ、トランクをかかえて階段をあがり駅の構内に入った。混雑していた。 勤め人の姿が多い。仕事を終えて近郊から帰ってくる人、郊外への家路をいそぐ人。一日の疲れがうきでた顔や足早な歩きから、通勤者だと見てとれる。朝夕の駅頭の風景は、世界中どこでも似通ってきた。案内所が見あたらなかった。たいして大きくもない駅なのだが、警官や売り子にたずねても「案内所? さァてね?」とたよりなく首をかしげる。『これじゃ、とび込みで見つけるしかないな』と覚悟をきめて駅をでた。大通りの向いに、ネオンがが雨に滲んでいた。歩歩きだそうとしたとき、駅の建物にCITY HOTELとネオンが光っているのに気ずいた。どうやら、ステーションホテルらしい。駅ホテルなら足まわりの便もいい。食事するにも、駅のレストランが利用できる。雨の中を歩きまわって宿をさがすのも面倒なので、ホテルに入りレセプションで部屋をとった。清潔で、機能的なビジネスタイプの部屋だった。『産業学園都市にふさわしい造りだな』と上着をワードローブに掛ながら、ふと思ったりした。
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「ウルムにいって
みては、いかがですか?」と私にすすめたのは、バーデン・ヴュルテンベルグ州日本代表事務所の小堀清代表であった。小堀さんは小柄で痩身だが、いつお会いしても白髪にキチンと櫛の目がとうり、表情が春の野辺のようにおだやかで落ち着いている。乃木坂の事務所でお話をうかがっているときには、いくどとなく大学の研究室で老教授から個人指導をうけているような気分になった。「あそこは、産業と環境とをどう共調させるか都市ずくりの実験がおこなわれてます。ベンツのリサーチセンターもあります。」シュトットガルトにあるダイムラーベンツ社を訪ねていくにあたり、私はテーマをさがしている。そのことを、小堀さんはご存知である。足繁くバーデン・ヴュルテンベルグ州の代表事務所をたずねたのも、ドイツ南西部のこの州の知識をできるだけ仕入れたかったからだった。「黒い森」で有名なうつくしいこの州は、現在ドイツでつくられる工作機械の四十パーセントを製造している。それだけの技術を生み、それだけの技術者をひきつけている背景はなになのか。それも、小堀さんとお話しながら生じてきた興味であった。「リサーチセンターは、どういう活動をしているんですか?」「自動車の製造課程ででる廃棄物をリサイクルさせる研究をしてます。学園都市内にあります。でもリサーチセンターはベンツだけがもっているのではなく、いくつかの企業が大学とドッキングしてかまえ、学生たちが授業で習ったこと、考えついたアイディアなどをただちに試すことができるよう、カンパスが構成されているんですよ」『面白い…』と思わざるをえない。学生が知識を頭でおぼえるだけでなく、すぐに実験で確認できるシステムはすばらしい。リサイクルは、先進国ならどこでも深刻な問題になっている。企業は資金力をつかって、高価な設備や実験器材をととのえる。それを、学生がつかう。企業には税制の優遇があたえられる。日本がこれから、急いで追いつかねばならない分野でもある。環境問題ともかかわるし、産業廃棄物の処理の問題もふくむ。ドイツはこれらにどのように対応しようとしてるのだろう。「興味がおありなら、こちらからウルム市に連絡してあげますよ」小堀さんは親切につけくわえた。『行ってみよう』と、私は思った。
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自然破壊と言いかえてもよいが、人間の欲望がもたらす環境の破壊には、ながい歴史がある。それは、自然との綱引きだったともいえるだろう。まず「火」があった。暖をとるだけの炎は、土器をつくる手段となり、薪を必要とするようになった。城や城壁をきずくレンガも、火が必要だった。陶磁器の生産には大量の薪が必要とされた。やがて時代がくだると、金、銀、銅、鉄などの金属が求められ、金属の製造がはじまった。森が熱エネルギーの一大供給源となった。開墾のための伐採もかさねられた。巨大な建造物、戦艦の建造には大森林を必要とした。すべては富のためである。富を得ようとする欲望の凄まじさは、中国文明揺籃の地黄河流域を、大森林から一望の裸地にかえてしまったことだけからもたやすく理解できる。十六世紀、英国ではじまった産業革命では、熱エネルギーが石炭に変わるまで木炭で供給され、木炭をつくるため木が伐りまくられ、英国から多くの森林が消えた。原状は、いまも回復されていない。どうやら産業革命が折り返し点だった。生産の場と生活の場が分かれたこの時期から、財の生産と自然との綱引きは、すこしづつ力関係がかわってきた。「自然」にはっきりと、環境破壊と汚染の問題が加わったのである。いずれも「、大量の財の生産と消費が、同時に生みだす「負の副産物」だった。それが敵意にみちた形相をヌッと人間に突きだすようになったのは、なんといっても今世紀半ばからだろう。「自然の逆襲」という言葉も生まれた。産業廃棄物の問題もリサイクルの発想も、これらの延長戦上にある。
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ベンツのリサーチセンターは、車で三十分ほどの距離だった。北の郊外にある。木立や叢の緑を自然にのこそながら、丘陵をならしてキャンパスが用意されている。道なりに走ると、ところどころ道が分岐して、学部を示すモダンアートのような金属の道標が置かれている。学部の建物は樹木にさえぎられて全く見えないが、その一部がのぞかれるぐらいである。走行に身をゆだねていると、なにやら森をドライブしているような感じだった。やがて前方がひろびろと開け、青空がひろがった。建物が整然とならんでいる。リサーチセンターだった。守衛からIDカードをもらい、一番奥の建物にむかった。ガラスを多くつかった。開放的な造りだった。ヘッツラーさんは駐車場に車を停め、さっさと建物に入っていった。慣れたものごしだった。見学者をなんども案内しているのだろう。
責任者はミヒャエル・メルチオーレさんという。名前からフランス人かイタリア人を想像してしまうが、生粋の北欧ゲルマン人で、背丈がたかだかとして四肢も見事なほどながい。「シュワーベン地方はローマ帝国の昔から、ラテンと交わりが深かったからでしょう」不躾とは思ったが名前の由来をたずねると、メルチオーレさんは笑いながら答えた。
リサーチセンターの説明に移った。「研究の目的はリサイクルに絞り込まれている。『産業廃棄物をいかに再利用するか』がテーマだから、研究者は『再利用の方法』に頭脳をしぼればいい。コストは度外視する。コストをかんがえるのは、方法がみつかってからである」次々に資料を示して、メルチオーレさんは説明していく。「研究にたずさわる学生たちには、月に千五百マルク(約十万円)の援助をあたえます。学生はこの金で、下宿代と食費をまかなえます」現場をみせてもらった。工場なみの設備をもつ実験場が、建物に隣接してたっていた 。週末なので、人気もないし機械も止まっている。ブルーのコートを着た学生が、一人だけ実験にとりくんでいた。その場所だけに、かしましい機械音と張りつめた緊張がある。メルチオーレさんが電話でよびだされて離れたとき、学生に実験の内容をたずねた。自動車製造の過程でできる金属と合成ゴムの接合材をバラバラに分解し、振動をあたえて分類・整頓する機械実験だという。地味な作業である。しかし、いずれの偉大な業績がそうであるように、リサイクルや産業廃棄物の問題を解決するにも地道な作業を丹念につみかさねていくしかないだろうし、その結果として技術的な解決方法が生みだされることが、もっとも近道であるように思う。大切なのは、その国と国民が地道なそれらの努力を評価し、支援をおしまない姿勢なのだろう。人気のない実験所でただ一人、自分の研究にうちこんでいる学生の真摯な眼差しが、つよく印象にのこった。
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| 4つに分別されたゴミ箱 |
環境汚染を初めて告発したのは、やはり多民族国家であり企業先進国のアメリカだった。一九六二年(昭和三十七年)、海洋生物学者のカーソン女史がその著「沈黙の春」で「農薬による食物ならびに大地の汚染に注意するよう」警鐘を鳴らした。本はベストセラーになり、大反響をよんだ。農薬会社ははげしく反発した。このときから「良心の告発」と「企業利益の反発」という図式が生まれたといっていい。ちなみにこの年、日本ではミナマタ病が「工場排水の水銀が原因」と熊本大学の研究班によって結論ずけられ、発表されている。しかし、東京オリンピック、新幹線と高度成長をひた走る日本では、まだ経済が最優先で、水質汚濁、土壌汚染、大気汚染はあとまわしだった。いっぽう、アメリカはケネディー大統領暗殺という試練にもかかわらず、大統領の科学諮問委員会が「沈黙の春」をとりあげ、調査を開始して危険な農薬禁止への第一歩を踏みだす。
ドイツではどうだったのだろうか。森の国では、「酸性雨」がおおきな問題となっていた。工場や火力発電所の排煙、自動車の排ガスにふくまれる亜硫酸ガス、窒素化合物が大気を汚し、雨にまじって降りおちてきて森を枯らしはじめたのである。 いわゆる「枯死」だった。バーデン・ヴュルテンベルグ州の「黒い森」でも木々が立ち枯れていった。汚染された大気は国境にかかわりなく周辺諸国にながれるから、スカンジナビアでも問題が深刻化した。「環境を守れ」と主張する「緑の党」が生まれて代表を議会におくり、環境汚染は政治テーマになった。政府もついに腰をあげた。八十三年には規制のための法律が定められただが、強い規制力をもつにはまだ時間を要した。しかし緒につくと、ドイツはさすがにはやい。法律はたんなるお題目ではなく、システム化されて実施されていった。ヨーロッパの事情からも、そうせざるをえない。さまざまな国が寄りあつまっているのがヨーロッパである。公害も汚染も、一国の問題ではすまされない。河川ひとつとっても、それはすぐにわかる。ドナウは十一ヶ国にまたがり、ラインは四ヶ国をながれる。汚染の問題は、ただちに国際化する。スイスの化学工場から、薬品がラインの源流にながれでたことがあった。被害はドイツであらわれた。魚が大量にうき、大騒ぎになった。西部ドイツでは、ラインの水を飲んでいるからだった。ドイツでもスイスでもただちに排水の規制が強化された。七年前の一九九〇年(平成三年)、四十一年の分断をへて東西ドイツが統一されたとき西側がみたのは、すざまじい東の公害だった。社会主義国には公害の規制がなかったから、まさにタレナガシのありさまだった。東の再建は廃棄物、排ガス、排煙、排水、汚染された土壌の処理からはじまったともいえる。コストがかかる。その結果、気のとうくなるような金が費やされた。財を生まない作業に金をつかうのだから、国際通貨のドイツマルクの価値は半分に落ちた。しかし、ドイツは果敢にとり組んだ。財源として、七%の「統一税」がもうけられ、国民もそれを呑んだ。不満はあるだろうが、ドイツ人は負担によく耐えていると思う。
アメリカやヨーロッパでおきた汚染の問題から、日本だけが例外でいることはできないだろう。東アジアの工業化がすすめば、大陸からの気流にのって酸性雨がやってくるし、すでに山陰地方の森林では酸性雨被害がではじめている。廃棄物や農薬汚染が海にながれだせば、海が汚れ、漁業に影響を与える。これらは国内でも、もちろん発生する。「赤潮」はその予兆でもある。「原材料を輸入し、財を生産して外国に売る」というシステムは、日本が国として存在するかぎり変わらないかたちだから、日本は否応なく対応を迫られ対処せざるをえなくなる。環境問題は国境をこえるのである。「処理は?保証は?国際協力は?」財の生産にともなう「負の部分」に敢然といどむ意志、コストを負担し、痛みを分かちあうだけの勇気をもつかもたないかは「国際的な信用」の問題である。日本人にとって万金の重みをもちはじめるだろう。
おわり
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